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ロシアのジャポニーズム
(ワシーリー・モロヂャコフ記)


 19世紀後半のヨーロッパにおいて、一斉に広まった日本美術への情熱が、「ジャポニズム」という名で呼ばれたのは、ご存知のことだろう。 当時のフランスではゴンクール、ドガ、モネ、ゴッホが、イギリスではホイスラー、ビアズリー、ドイツではプレトーリウスたちが、浮世絵に魅せられ、収集し、その技法を研究することで、ヨーロッパ美術を豊かにしようとしたのである。

 しかしロシアの文化と美術が、ヨーロッパの芸術的探求と深く結びついていたにもかかわらず、ロシアにおけるジャポニズムについては、ほとんど言及されてこなかった。従って、ここで改めて、ロシアのジャポニズムの歴史を簡単に紹介しようと思う。

日本の幕末時代、有名な小説家として知られていたイワン・ゴンチャロフ(Ivan Goncharov; 1812-1891年)は、早くも1854年にフリゲート艦パルラダ号で日本を訪れ、名高い旅行記『日本渡航記』を執筆した。
 

Vasily Molodyakov
Vasily Molodyakov (ワシーリー・モロヂャコフ)、歴史学博士、東京在住
写真:Alexander Kulanov

明治時代には、別の有名な小説家であるヴィセーボロード・クレストーブスキー(Vsevolod Krestovsky; 1840-1895年)が、ロシアの雑誌『海軍月間』と『政府会報』の特派員として軍艦で日本を訪れ、旅行記を執筆した。
Ivan Goncharov
Ivan Kramskoyの絵画「作家イワン・ゴンチャローフの肖像」、1874年
 両者の著作は当時よく読まれたが、それは人気のある作家の新しい著作としてであって、日本の旅行記としてではなかった。他にも数点、日本への旅行記が当時書かれたが、日本美術がロシアで本格的に知られ、注目されるようになるには、ゴンチャロフの来日訪問から半世紀も経ってからのことであった。

 1900年、3人の若いロシア人画家が、当時の最も権威ある美術教育の中心地、ドイツのミュンヘンに留学していた。当時ドイツは、すでにジャポニズムの洗礼を受けた後だったのだが、若いロシア人たちにとって初めて目にする版画はまさに「発見」であり、彼らはそこに思いもよらない新しい世界を見出し、たちまち魅了されたのだった。母国からの送金を受け取るやいなや、彼らは浮世絵を商う小画商のもとへ駆けつけ、無名の絵師から歌麿のような巨匠まで、日本人の店主がファイルから次々に取り出す、新しい浮世絵の数々に眼を瞠り、収集を始めたのだった。そして、次のステップとして浮世絵の研究を始めたのである。
 3人の若き画家の名は、イーゴリ・グラバーリ(Igor Grabar; 1871−1960年)、ムスチスラフ・ドブジンスキー(Mstislav Dobujinsky; 1875−1957年)、公爵セルゲイ・シチェルバートフ(Serguei Scherbatov; 1875−1962年)である。

 数年後ロシアへ帰国した彼ら3人のうち、グラバーリとドブジンスキーは革新的な美術家グループ「美術世界」に参加し、美術運動のリーダーになった。

 「美術世界」の画家たちは、ロシア・ヨーロッパの最良の美術伝統を継承しつつ、そこにヨーロッパの最新芸術を融合し、ロシアでまったく新しいスタイルを作ることに挑戦した。中でもドブジンスキー等は、やがて画家として広く名を馳せたが、彼らがとりいれた西欧美術の最新の趣味および結果に、ジャポニズムが含まれていたのは、当然のことだった。

日本とロシアは隣国であるにもかかわらず、浮世絵を中心とした日本美術が、東京や長崎から直接にではなく、ミュンヘンやパリを経由して、モスクワ、ペテルブルグに到達したというのは、逆説的なようだが事実である。

 
World of Art
Boris Kustodievの絵画「美術世界」、1916-1920

ロシアの画家や美術評論家、美術愛好者にいたるまで、当時はあたりまえのようにヨーロッパの流行に追従していたため、彼らが歌麿や北斎や広重に興味をもち始めたのも、まずパリの一流画廊に浮世絵の傑作が展示され(作家のゾラ、またはゴンクールが収集していたこともあり)、流行の美術雑誌に取りあげられてからだったのだ。それが、日本美術のロシアへの道だったのである。

たとえば、優れた詩人であり画家のマクシミリアン・ヴォローシン(Maximilian Woloshin; 1877−1932年)は、若い時にパリに長く暮らし、そこで浮世絵のファンになり、一九〇二年末頃日本(のちインド、南米)を訪する予定を計画した。若い画家は、東洋文化、特に仏教思想と美術に対する興味が高かったので、周到な準備を整えようとしたが、資金不足と日露戦争勃発によって、その計画はついに実現されなかった。

 グラバーリは、自身の作品自体に、日本芸術を目に見える痕跡として残してはいないが、画家としてだけでなく美術研究者、美術評論家としても知られていた彼は、1903年に日本の版画に関する、ロシアで初めての著作を書き上げ刊行した。そこには主に、ミュンヘン滞在中に収集した、著者自身の浮世絵のコレクションをもとに、多くの図版が掲載されており、現在でも注目に価する著作として残っている。

 グラバーリやシチェルバートフ公爵が収集した、浮世絵の優れたコレクションは、1904〜1905年にモスクワとペテルブルグで展示され、日露戦争の最中であったにもかかわらず、参観者たちに大きな関心と共感を呼びおこした。このグラバーリのコレクションがその後どうなったのかは、筆者にも定かではないが、ロシア国内の一美術館に所蔵されていることも充分考えられる。だが、シチェルバートフのコレクションは、由緒ある貴族の家柄であったシチェルバートフ公爵が、1917年の10月革命を避けて内戦の最中に亡命する際、散逸してしまった。

 

Igor Grabar - Chrisantemums 1905 
Grabarの絵画「菊」、1905年
 ロシア美術界で権威を持っている画家ニコライ・レーリヒ(Nikolai Rerikh; 1874-1947年)と、美術評論家セリゲイ・マコフスキー(Sergey Makovsky; 1877-1962年)は、当時、浮世絵を中心とする伝統的日本美術を非常に高く評価していた。そして1904〜1905年の展覧会の後、ロシアの美術界や美術の愛好者たちは、次第に浮世絵の世界に魅了されていき、それがロシアのジャポニズム、日本趣味への始まりとなったのである。

 グラバーリの場合とは異なりドブジンスキーは、日本美術の巨匠たちの芸術との出会いを、自分の作品、特に雑誌や本の装丁に活かそうと試みた。絵本、とりわけ雑誌の装丁は、19世紀末まで2次的な芸術とみなされ、「真の画家」の携わるべき領域ではないとされていたが、イギリスの画家ウィリアム・モリス、後に続くビアズリー、「イエロー・ブック」(≪Yellow Book≫)誌、そしてジャポニズムこそ、装丁画を優れた芸術へと格上げする端緒となったのである。

 ロシアで同じような役割を果たしたのは、「芸術世界」グループの画家たちだった。ロシアにおける装丁美術の天才、精巧な線と単色画の巨匠としてしられているアレクサンドル・ベヌア(Alexander Benua; 1870-1960年)が、ドブジンスキーに続いて日本美術の研究に取り組んだのである。

 では日本の伝統美術の何が、ロシアの画家たちをこれほどまでに魅了したのだろうか。浮世絵に関していえば、19世紀後半のリアリズム絵画の特徴であった陰気な色調と対照的な、原色の鮮やかな明るい色彩の豊かさにあると思われる。

Valery Bryusov

Malyutinの絵画「ワレーリー・ブリューソフ」、1913年
 
 ヨーロッパの伝統的絵画は時代が下るにつれて静的になり、動きを失い、そのため生命感の乏しいものになっていった。ヨーロッパの絵画にふたたび世界の躍動感をもたらしたのは印象派の画家たちだが、自ら認めているように、彼らもまた、日本版画のもたらした技法を学ぶことによって、ヨーロッパの絵画に新しい息吹をもたらしたのである。

 絵画だけでなく、本の装丁や雑誌の挿絵とデザインにおいても、明らかに日本美術の影響を受けている。それ故、1910年代に有名になった美術評論家ニコライ・プーニン(Nikolai Punin; 1888-1953年)は、浮世絵を中心とした日本美術を「ヨーロッパの夢」と評したのである。

 日本と日本美術への関心は、当時のロシア文学者の間にも非常に高かった。美術界の「美術世界」と同じように、文学界で一番モダンなグループだった象徴派の詩人と作家たちは、1904年からモスクワで「天象座」という月刊誌を出版し始めた。その編集長、また主要なイデオローグであった、詩人であり小説家のワレーリー・ブリューソフ(Valery Bryusov; 1873-1924年)は、自ら浮世絵の愛好者になった。

 まず詩人として知られているブリューソフは、知識と関心の幅がたいへん広い人物で、子供の頃から、旅行記や自然科学の専門雑誌を読むのが好きで、八歳で「オーストラリア」という詩を書き、19歳で「日本にて」という詩を書いたことがあるほどだ。
しかし1904〜1905年の日露戦争勃発以前、彼の日本への関心はかなり低かったようだ。ブリューソフと同じように、ロシア人一般が日本美術に真に関心を寄せるようになったのは、ようやく日露戦争が起こってからである。

日露戦争をブリューソフは、ヨーロッパとアジア、西洋と東洋という二つの文明の闘争とみなした。この時期の彼の詩には、太平洋における領土拡大は、ロシアの歴史的・地政学的使命であるとする見方が反映されている。ブリューソフはこの戦争でのロシアの勝利を確言し、反日的な発言を多くしていた。

しかし、1904年秋、ブリューソフが編集している「天象座」の10月号と11月号では、明らかにジャポニズム的な装丁で刊行することになるのである。これは実に、言論界の反日キャンペーンへの公然たる挑戦であったのだ。これを受けて、象徴派の別の文芸誌「金羊毛」は、直ちに「天象座」のイニシアティブに続けて、日本文化と美術についての論文数点を発表したのだった。

「天象座」の場合には、資料の検討の結果、このジャポニズム的な二号分の装丁は、ブリューソフの提案だったことが明らかになった。ブリューソフは自分の考えを次のように説明している。
「私たちは読者に、私たち皆が愛し高く評価している日本を、兵士たちの国としてではなく、画家たちの国として思い起こしてほしい。大山元帥の国ではなく、歌麿の国として」。

「天象座」に掲載された浮世絵の一部は、雑誌の編集者が集めていたコレクションからの作品だった。当時の私信で、ブリューソフはさらに思い切った気持ちを吐露している。

「政治的な情熱に火が点いた今日、『天象座』は勇気ある公平さで日本画への心服を告白しなくてはならないのです。『天象座』の使命は、大衆の美的な趣味を導くことであって、大衆の本能を野放しにすることではありません」。

それはブリューソフの、日本美術だけでなく、芸術すべてに対する姿勢だったのだろう。

1910年代にブリューソフは、『人類の夢』という詩集を計画し、そこに様々な時代、様々な民族の抒情詩の形式を反映させようと試みた。実は、この企画は、計画途中で挫折したのだが、実現した一部だけを見てもたいへん興味深いものとなっている。

その一つに、日本の短歌や俳句を模倣した連作がある。それはブリューソフの作品のなかで最良のものとは言い難く、評価はいろいろあるだろうが、ともかくこれは日本の伝統的な詩の精神で書かれた、ロシアで最初のオリジナルな詩なのである。

 後に象徴派の代表的な詩人であるヴャチェスラフ・イワーノフ(Viacheslav Ivanov; 1866-1949年) と、アンドレイ・ ベールイ (Andrey Bely; 1880-1934年)等も、ロシア語でオリジナルな短歌を書いたが、 おそらくこれはロシア文学におけるジャポニズムの影響であると結論できる。

日露戦争の時から、日本趣味、ジャポニズムは、ロシアの貴族とインテリの精神的世界の一部になり、その後、一般の日常生活にも届くようになった。

それは、象徴派の代表的な作家であるベールイの主な小説『ペテルブルグ』(1913年)において、日本のことが中心テーマになっていることからも推測できる。ベールイ自身は、日本を「黄色い危険」とみなしたが、ファッションとしての日本趣味を、正確に描写しているのだ。

またロシア革命直前、象徴派の長老であった詩人コンスタンチン・バーリモント(Konstantin Balmont; 1867-1942年) も、1916年に日本を訪問しており、この素晴らしい旅行について、美しい詩とエッセイ数点を執筆している。

ロシアのジャポニズムについての研究は、まだ始まったばかりであるが、それはロシアと日本の文学、美術界において、十分価値ある研究課題となるにちがいない。
 
Viacheslav Ivanov
K.Somovの絵画「ヴャチェスラフ・イワーノフ」、1906年
 
     
 
 
     

 
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